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沿革

千葉県佐倉市は江戸時代、江戸の東の防衛拠点として徳川譜代の大名によって支配されていたが、延享三年(1746)、堀田正亮が山形から入封、以後は堀田家の所領から変わることなく廃藩置県をむかえる。

幕末、老中首座となった堀田正睦は藩政改革の一環として、今の市民体育館のある場所に「成徳書院」(現代で言えば総合大学)を天保7年(1836)に開 設。ここでは剣術や馬術・弓術や槍術・柔術などの武術と基礎教養である儒学に加え、蘭方医学やオランダ流の砲術(軍学)を学ばせた。

ここで藩士に学ばせた弓術は日置流雪荷派であったが、明治維新以降残念ながらその足跡を残すことがなかった。
しかしながらここで培われた文武両道の遺風は明治・大正・昭和と絶えることなく継承されていく。

戦前にはのちに初代佐倉市長となる木倉和一郎氏が鏑木町の自宅の中に3人立の弓道場を設け、佐倉高等女学校の弓道部の指導に当たると共に、一般への指導をも行っていたことが知られている。

しかしながら敗戦と共に武道の禁止が命ぜられ、弓道のみならず、全ての武道が存亡の危機に瀕した。
その中で弓道はいち早く復興に向け歩み始める。千葉県においては全国に先駆け昭和21年10月6日、木倉和一郎氏を初代会長として千葉県弓道連盟を発足させた。

とは言うのも戦後の焼け野原の中でまともな弓道場もなく活動の場は各地の個人道場が頼りとなった。
前述の木倉道場を先駆けとして、その後には寺崎の神永武久氏が同好の士を引き連れ、成田の成嶺会道場で稽古をすすめ着実に歩みを始めた。
そして昭和30年に佐倉市体育協会設立と同時に加盟するまでに至るのである。

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